あんらくし

考えたことのメモなど

好きな人がいます

タイトルのとおり、好きな人がいます。

キャー付き合いたいわという方向の好きではなく、ああ、好きだなあという方向の好きの話です。念のため。


まわりにいる人のことはたいてい好きなのですが、今日はこのブログを作るきっかけに(間接的に)なった人について書こうと思います。


私は卒論を控えた学部生なのですが、専攻分野的に卒論指導の教授に選択肢はありません。なぜなら一人しかいないからです。

その教授はそれはもう教授らしい人で、労働は悪だ、なぜ三大義務かのかと言えばそう定義しなくては誰もやらないからだという理念を掲げて文学研究に勤しみ、日々社会に不適合をきたしているファンキーなお方です。

二年ほど週に一度以上授業を受けて洗脳を受けるというプロセスをふんだ結果、三年に上がる頃にはすっかり教授の持論にやられてしまって畏怖しつつも好き、というような状態になっていました。

教授と関わる機会が多いボランティア的なことを半年ほどやった際に打ち上げで名指しで褒められてさらに舞い上がっていたわけですが、そこからさらに半年たって研究室に顔を出したらすっかり忘れられていてわりと凹みました。

私にとっては一回きりのことでしたがら教授にとっては何度となく繰り返してきたルーティンの一つに過ぎなかったのです。当然ですね。

そのあと課題を貰っては提出しに行く、というのを何度か繰り返していたのですが、オフィスアワーに訪れても教授がいないわけですよ。「帰宅」の札にめげず事務員さんに聞いても「すぐ来るから待ってたら?」とのことで一時間ほど廊下で待ち(…)、さらにその後授業が終わるまで一時間半ほど電車に揺られ(その時すでに二時間半ほど待っていて心が疲弊していたらしく、校内でぼーっとしてるのが耐えられなかったのです)、改札口で超過料金の説明を受け、授業終了五分後に研究室に着いたものの先生はおらず(…!)、たっぷり二十分ほど待った後にようやく御目通りが叶ったのでした。

そのような悲しい目にあった文句を伝えてやろうと息巻いていたのに、いざ二人きりで会って話してみると「本屋に寄ってから行こうとしたら本に夢中になって遅刻した」という子どもみたいな言い訳ですらなにやら高尚な気がして文句どころか思わずフォローの言葉をかけてしまう始末。

一対一で言葉をかけてもらえたのが嬉しかったらしく、マスクの下でなんだか泣きそうになりながら話を聞いて、課題をもらってその日は帰りました。

それからも何度かすれ違ったり、名前を一文字器用に間違えられていたり、電話番号を聞かれたのに折り返し電話で名乗らなくちゃいけなかったり(名乗ってもわかってもらえなかったり)していますが、けっきょく会ったら思想や言葉にひれ伏すしかないんだろうなと思います。ということで、カリスマっているんだなあという話でした。